大漁未来主義
4月1日(日)〜4月15日(日)
「大漁未来主義」展
グロイスフィッシングクラブというからには何かを釣り上げるのだろう。ボリス・グロイスは論文「複製ツーリズム時代の都市」の中で、芸術のインスタレーションがユートピアとしての都市を目指すものであるとした上で、そうした都市像がグローバル化によって、ツーリズムにとって変わられたことを指摘している。観光客は私たちの未来の豊かな暮らしの姿だろうか。世界中を旅して回る美化されたノマドとしてのコスモポリタン像は80〜90年代の短い間だけ夢見られた。現実のノマドは、難民の姿にとって変わられつつある。移民や難民の受け入れ人数が他国に比べて少ないからといって、日本でこのような問題を身近に感じられないということはない。私たちが島だと思って乗っている足の下のそれは、こんなによく揺れるのだ。もしかしたらただの船かもしれない。一度、釣竿にかかったものを引き上げてみよう。そこにはかつて理想とされたツーリストの遺骸がひっかかっている。グロテスクかもしれないが、悲観することはない。そこには情報と、肉体と、少しばかりの未来があるはずだ。まずはそれを適切な仕方で葬るところから始めよう。
キュレーター イトウモ
(2018年1月キュレーター応募ステイトメントより)
グロイス・フィッシング・クラブ(以下、GFC)とは
内山智恵、じょいとも、トモトシ、横山奈穂子の4人の作家によって2017年5月に東京で結成されたアート・コレクティブ。グループ名に冠した「グロイス」とは、旧ソ連のアンダーグラウンドおよび現代のヨーロッパ現代美術のシーンで活躍するキュレーター兼美術批評家ボリス・グロイス(1947〜)のこと。GFCはキュレーター主導で運営方針やコンセプトを決定する従来の美術館、私設ギャラリーでの展示形式に異を唱え、アーティスト自らがキュレーターを選び、行使するというコンセプトのもとで活動している。過去には下山由貴をキュレーターに迎えた「#遠距離恋愛展」(2017年12月、野方の空白)、富士山をキュレーターとして迎え参加した企画展「富士山展」(2018年1月、AWAJI Cafe and Gallery)などでの活動があり、2018年4月に批評家イトウモをキュレーターとして迎えグロイスが参加した『ロシア宇宙主義』に着想を得た「大漁未来主義展」を開催する。
6回のミーティングとフィールドワークを行いました
ミーティングの記録音声
statement
「大漁未来主義展」とは、
端的に。今回の展示では、お花見会場になんらかの形で死者をまつるというものになった。その経緯を手短に説明する。
GFCのメンバー曰く、「アーティストがキュレーター、そして理論家を行使する。そのために次世代のグロイスを釣り上げる。」というのが、彼らのコンセプトらしい。ボリス・グロイスという理論家の立ち位置がどういうものであるかは、2012年5月発表の彼の論文「Under the Gaze of Theory(理論の眼差しの下で)」(e-flux35所収)を参照しよう。ここでグロイスは美術批評をはじめとした、アートに関わる言説の近年における低迷、つまり言葉に対するマーケットの優位を語りながら、それでも美術が言葉で組まれた理論の後ろ盾を必要としていると主張する。
グロイスのロジックはこのようなものだ。哲学は自己省察を試みるが、あらゆる人間は自分の誕生にも死にも立ち会うことができない。あらゆる人間は死んだことがないのに、なにと区別して自分が生きていることを知るのだろう。自分がいつどこに生まれ、いつどこで死ぬかを考えるには他人の目が必要だ。つまり我々は、他人の目に自分がどう映っているかを経由して初めて、自分が生きていることを知る。
これを美術に還元すると、私たちの生を他人の目が担保するのとちょうど同じようなあり方で、クリエイションの意義を担保するのが理論なのだ。グロイスは「なにを考えるか」に基づく哲学から区別して、どう行動するかに関わるものとして「理論」を規定する。彼にとって理論は言葉に限らず、どのように実践(=展示)するかでもある。つまりそうして彼は、理論家でもキュレーターでもある。
GFCが想定するのはこうした理論家=キュレーターのようだ。彼らはこうしてここで一つにはアーティストとキュレーターの権力関係の転覆を目論んでいる。また同時に、そうして言葉を武器にするキュレーター=理論家を手駒にして、マーケット優位のアートワールド構造に異を唱える批評に加担する。
今回こき使われることになった私は、なぜその対象がグロイスなのかという質問を逆に彼らにぶつけてみた。なぜ、そこでこのような日本という現代美術の辺境地で、また別の辺境でもありそうなロシアに文脈を持つ理論家を召喚しなければいけないのだろうか。しかし、それは思索のための哲学的な問いだ。まがりなりにも理論家=キュレーターとして雇われた私は正しくこう問うべきだ。ボリス・グロイスは現代の日本という当人と特別関係のない土地で、どのように実践されうるのか。
先の哲学の例で死生観が参照されるのには、グロイスがロシア宇宙主義に関わりの深い理論家だという側面がある。
ロシア宇宙主義とは19世紀の図書館司書ニコライ・フョードロフによって唱えられた理論を、彼の死後その友人、知人たちが編纂したものだ。そこでは歴史上のあらゆる人類が自然科学の力によって復活、不死化することが人類全体のプロジェクトとして唱えられている。
邦訳もされた「ロシア宇宙主義」論考集の、グロイスによる序論では、いかにしてフョードロフのプロジェクトが20〜21世紀に受け継がれているかが説明されている。そこでは、不死がソ連という共産主義国家による共産主義という名目の上でのあらゆる人類の「時間の平等」のためのプロジェクトとして、そして国家による福祉政策の一環として想定されている。人間は不死になり、それは国家によって自然科学を通して実現され、未来永劫人間は保存される。グロイスはこうして国家が人間に担う役割を、美術館が作品に担う役割として想定する。彼にとっての作品とは不死の人間であり、展示の実践とは永遠にそれを保存することなのだ。
ではそれを日本でどのように実践するのがよいだろう。つまり、国家による不死のプロジェクトを試作すること。それが今回の展示の眼目だ。2020年にオリンピックを控え、2016年にトランプ政権が実現したアメリカからは国際社会での独り立ちを迫られ、アジアの隣国からは経済的に圧迫されたり、弾道ミサイルの威嚇射撃を浴びせられ、私たちは今どのように自分たちが「日本人」であるか再規定するように迫られている。
ロシア宇宙主義において死者をどのように扱うかが問題になるのは、それが国家の存続に関わることだからだ。つまり、死者を使ってどのようにその国民の気持ちを集め、私たちを何人として規定するか、という問題がそこでは扱われているのだ。
では、まず誰から蘇らせることが、誰を蘇らせようとすることがこの国の利益につながるだろうか。
私たちは4月に展示会を開く。だから、私たちは試しにこの展示をお花見会場で開くことにした。考えなしにそんなことをしたのではない。坂口安吾の古い小説にはこうある。
「桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子だんごをたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。」
なぜ嘘かというと、桜の樹の下でそうして人が集まって騒ぎ始めたのはごく最近で、あの花見の輩がいなくなれば実は、そこは結構恐ろしもの、能にも、子どもを誰かにさらわれた母親がそれを探して迷い込み、子どもの影を幻視してそこで狂い死にするとかしないとかで、樹の下にはその屍体が埋まっている。私たちの国はそうした危険な植物を自分の国の文化の象徴として誇りに思っている。
私たちの春はそれを掘り返すところから始まる。
イトウモ
OVERVIEW
展覧会名 :大漁未来主義
開催日:4月1日(日)、4月4日(水)、4月7日(土)、4月8日(日)、4月14日(土)、4月15日(日)
時間:13時〜18時
場所:回により異なる
企画・主催:グロイスフィッシングクラブ
キュレーター:イトウモ
参加作家:内山智恵、じょいとも、トモトシ、横山奈穂子
access
※雨天の場合、中止します。
中止の場合は前日か、もしくは開催の1時間前までには
Twitter(@g_fishingclub)、
Facebook(https://www.facebook.com/g.fishingclub)
のイベントページにてお知らせします。
curator
1990年生れ。京都大学卒。演劇の演出、新聞記者、塾講師などを経て執筆。映画を中心に批評、取材やインタビューなどで活動。大学では美学を専攻し、 デヴィッド・リンチを専門に研究。
過去の執筆
Groys Fishing Club.とは
グロイスフィッシングクラブの第3回目の展示を開催する。
今回はキュレーター、イトウモ氏の展示プランを採用させていただき、ついに我らがボリス・グロイスに迫った内容の展示を行う。内容の詳細はイトウモ氏に大いに語っていただくとして、我々は思想の可視化に全力で取り組んだ。展覧会(と呼ぶには花見すぎる花見かもしれない)では各作家の葛藤の軌跡を感じてもらえるだろう。
アートのショーとしてはかなりパフォーマティブなものになるかもしれないが、そこで何が行われるか、ぜひ見に来ていただきたい。
記録展も予定しているので、併せて楽しんでいただければ幸いです。
(執筆 GFC 横山奈穂子)